愛について死についてSNSバッシングについて

 

時々ふと疑問に思うことがある。

 

私はかつて一度愛した人のことを憎むという心理が理解できない。

好きだったなと思い出すことはたくさんあるけど、憎しみを持ち続ける程持久力ないわ。疲れちゃうよ、そんな感情。

別れた元交際相手への執着で、ストーカーになって刺しちゃう人とか、どんな心理状態なのかわからない。

ひどい別れ方をしたとしても、そんな相手を選んだ自分の見る目のなさを嘆けよと思う。

 

そもそも私ははなからそんな相手を好きにはならない。

だって自分が惚れ込んだ相手が大したことない人間なわけがないから笑

 

例えば浮気されて別れたとかなら、そんな相手の記憶なんてまっさら消去するので最早覚えてない。

 

心に残る人というのは自分にとってかけがえのない人だ。

 

結婚までしたのならやっぱり少なからず心には残る。

 

成長過程、ステージと共に出会える人間の質も変わってくる。

アプリで簡単に出会える時代になり、そういう自分の人間としての器関係なく、自分とは一生交わらなかったであろうステージの人達とも割と簡単に出会える時代になった。

 

なんでも釣り合いというものがあり、補い合えるメリットがあるから関係は続くわけで、そこのバランスがうまく取れなくなると関係は終了する。

学ばせてくれてありがとう、次のステージへ進むね、と終わるのである。

きつい別れ方すらも学びになる。経験になる。

人間は変化していく生き物なので同じ人間でも毎日違う。

最初はうまく合っていてもずれてしまうことなんて多々ある。10代、20代なんて成長途中で本当に変化に富むだろうし、20代前半と後半では成熟度も全然違う。と思う。

そもそも全て自分とピッタリ同じ感性の人間なんてこの世に存在しない。

いたらクローンだ。

似てるけど違う。だからいい。違う視点での発見があって。そこのフィット感だと思う。相性の良し悪しって。

年齢を重ねてお互いに気持ちが変わっても、相手との良好な関係を継続させるために理解しようと歩み寄り、問題は共に解決しようと努力する姿勢が必要だ。

だから難しいよね。

いつだって新しいものはとても魅力的に映るから。

好きな人と過ごせる時間って当たり前じゃなくて奇跡に近いのに、いつのまにか忘れてしまうんだよね。

 

不思議なのは、竹内結子さんが亡くなられて、元夫であった中村獅童さんのインスタグラムに鬼の首を取ったかのように、自分の正義を振りかざしてバッシングコメントをする人々のことだ。

 

どの正義を抱えてバッシングするんだろう?

 

不倫スキャンダルで離婚したとなっているが、本当のところなんて2人にしかわからない。

しかも何十年前の話してるの?

 

かつて一度愛した相手、しかも結婚までして子供までいた相手。

そんな相手の訃報に胸を痛めない人がいるのだろうか。

何も感じていないわけがないだろう。

過激な言葉を使うと、

馬鹿じゃないの?

と思うわけです。

中村獅童さんが、わざわざSNSで言葉や形として悲しみを表現する方が芝居がかっているし、引く。

相手家族にも自分の今の家族にも、そしてお亡くなりになられた命に対してさえも冒涜していると思う。

だから無言を貫くことは礼儀だと思うし、本当にショックな時って直後は実感できないもんだ。後からずっしりじわじわと重くのしかかってくる。

 

それほど影響力が大きかったってことだよね。

みんな悲しくて受け入れられなくて、悲しみの矛先を訳わかんない方向へ向けたんだろうな。

 

だけどそれを受け止める中村獅童さんの痛みにまで頭は回らないのかなってことです。

 

ショックを受けている時に、さらにお前のせいだと責められたら、どう思うのかなって。

簡単な想像力の欠如の話です。

 

悲しいニュースが多いですが、時間が解決してくれることを待つしかない時もありますね。

真摯に重く受け止め過ぎてしまう人が陥ってしまうのかなと思います。何でも過ぎるとつらいです。

 

限りある命の時間を憎しみや悲しみに費やすのも人生。

そんなことよりも楽しいこと綺麗なもの好きなもの実りある人生を追い求めるのも人生。

悲しみ、怒り、憎しみ、復讐心をバネに自分を鍛錬し磨くのはとても素敵だと思う。

たぶん辿り着いた時に見える世界はまた違って見えるんじゃないかな。

負の感情のエネルギーって強いから、その矛先をうまく使えば素晴らしく昇華できるな〜と思った話です。